2017年2月25日土曜日

久しぶりの道衣

良く続いたものだ、良く飽きなかったものだ、49年目の横浜、空手道は全て自分の為の修行のようだった、山籠りしたり、来る日も来る日も独自の練習、空手道で生計立てる事は厳しかった、結婚し子供が生まれ、家計を切り盛りする家内に、今何が何でも恩返し、台湾で空手指導の中で運命の出逢いの太極拳、その独特な風格には私の霊が共鳴した。強さを追い求めて来てた私は、直感があった、古流柔術を学んだり、暗中模索な若き拳士、『求めてるものは、こんな事でない、こんな事でない、と叫んでいた気がした』日中国交回復と同時に中国5000年文化が開花した。中国の盆踊りを、、と鬱陶しい陰口が耳に入る、現状に甘んじる事は私には苦手で息苦しい!思った事、きずいた事は、直ぐ実行する、激しい気性は嫉妬や、やっかみは清涼飲料水、人の気持ちが解らない人に解って貰えなくて、かまわない、当時の自分はくすぶる事なく学ぶことは『教わること』20歳で指導者となった私は、無責任に教える事の怖さを知ってる、行き詰まってた。学ばぶ事の楽しさは一番知ってる。学び教えの庭を開く、その中で太極拳と言う代物は国内に知られてない時期、中国の文化遺産太極拳は心体にあった。その思想空手道人は太極拳に理解示す人は多くない、太極拳の人々は空手道に理解を示す。空手道の外家拳、と太極拳の柔の内家拳、剛柔が合わされて私の道が定まった。空手道横浜、49年、太極拳39年夢に向かって走って来た。錬心館関東地区本部、日本太極拳友会、良く育って来てる。自分の事を後にして他の事を先にする、人の痛みの解る弟子がいるか、時代が心を育てる。しかしながら、とんでもない合理的な時代に成ろうとしてる。2月17日は鹿児島から特急寝台富士で横浜駅に降り立った日にち、弱冠20歳の嘴の黄色い若僧もいい歳になった。私と同世代の錬心館の二代目宗家も亡くなった。先日鹿児島で二代目の御前にお参りして奥様が坦々と語る姿に無情感にさいなまれた。人生塞翁が馬、何か寂しい思いは脳裏から離れない、走り出してる錬心館、歩む道を歪ませてはならない、

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